アンソロビジョン | 読書メモ#7

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Apr 10, 2022
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まとめ

まえがき

  • 「研究とは好奇心の体裁を整えたもので、いわば目的を持った詮索である」ゾラ・ニール・ハーストン
  • 人類学は身のまわりの世界を詳しく見て、ありふれた現実の中に潜んでいる事柄に気づき、他者に共感を抱き、問題に対する新たな洞察を得るための知的フレームワーク(枠組み)
  • これまで私たちが世界を理解するために使ってきたツールの多くは、どう見てもうまく機能していない。近年、経済予測、選挙の世論調査、金融モデルは当たらず、テクノロジー・イノベーションは危険をはらみ、消費者調査は判断を誤らせる。こうした問題が生じるのはツールが間違っている、あるいは役に立たないためではない。ツールが 不完全 であるためだ。視野が狭く、世界はごくわずかな変数で分類・把握できるという前提に基づいて設計され、文化やコンテクスト(文脈、背景)に配慮せずに使われるからだ。
  • 融通のきかない経済モデルなど二〇世紀に開発されたツールだけに頼って二一世紀を渡っていこうとするのは、夜中に真っ暗な森をコンパスの盤面 だけを見つめながら歩いていくのに等しい
  • 視野が狭いのは危ない。必要なのは広がりのある視野であり、それこそ人類学が与えてくれるものだ。これを「アンソロ・ビジョン(人類学的視点)」と呼ぼう
  • アンソロ・ビジョン
    • グローバル化の時代には見知らぬ人々に共感し、ダイバーシティ(多様性)を大切にする姿勢を育むことが急務であるという考え
    • どれだけ「異質な」ものであっても他者の考えに耳を傾けると他者への共感につながるだけではなく(それはそれで今日切実に必要とされていることだが)、「自らの姿もはっきりと見えてくる」ということ
    • 「未知なるものと身近なもの」という概念を理解することで、他者や自らの死角が見えてくるという考えだ。人類学者は精神科医に似ている。違いは個人をソファに座らせて話を聞く代わりに、人々の集団を観察することを通じて、そのバイアス(偏り)、想定、集団として受け継いだ心象地図を理解しようとするところにある。たとえて言えば人類学者の仕事は、社会のレントゲン写真を撮り、人々がおぼろげにしか気づいていない半ば隠れたパターンを見つけ出すことだ。その結果、ある事象が起きた原因は「x」だと思われていたのが、実は「y」だったと明らかになることも多い。
  • 科学のなかで 異質馴化、 馴質異化 に取り組むのは人類学だけだ (ホレイス・マイナー)
  • ウォーフが特に関心を持ったのが、言語に内包された文化的前提だ。そこに文化による違いがあることを知っていたから
  • ビッグデータは 何が 起きているかは説明できるが、それがなぜ起きているかはたいてい説明できない。相関関係は因果関係ではない。同じように、心理学も個人が陰謀論者になる理由は説明できるかもしれないが、陰謀論が集団のアイデンティティとなる過程は必ずしも説明できない。
  • ビッグデータは「シックデータ(厚いデータ)」で補完する必要がある。
  • 「未知なるもの」を身近なものにする、「身近なもの」を未知なるものにする、そして社会的沈黙に耳を澄ます。
  • 本書で紹介する考え方は、人類学の学術的研究から生まれたものばかりではない。ユーザーエクスペリエンス(UX)研究、社会心理学、言語学、地理学、哲学、環境生物学、行動科学などの分野で育まれたものもある。

「未知なるものを」身近なものへ

  • 人類学が私たちに与えてくれる教訓のひとつは、「未知なるもの」やカルチャーショックを受け入れるのは自らのためになる、ということだ。そのために発展させてきたのが参与観察(「エスノグラフィー」とも言う)と呼ばれる方法論だ。
  • 私が人類学にのめり込んだのは、世界を探究したい、「人間であるとはどういうことか」を知りたいという抑えがたい欲求からだ。人類学を学ぶなかで、そのひとつの方法が「エスノグラフィー」、すなわち他者の暮らしにどっぷり浸かり、異なる視点を理解することだと知った。
  • 子供のような目で世界を眺めてみることの大切さ。
  • 人類学のアプローチは違う。出発点はやはり観察だが、何が重要か、何がふつうか、トピックをどのように分類すべきかをあらかじめ明確に決めず、子供のような好奇心をもって対象に耳を傾け、学ぼうとする。人類学者は制約のない自由な観察 だけに頼るというわけではない。目にしたことを体系化し、パターンを探そうともする。経験主義的方法を採ることもある。しかし出発点ではオープンマインドで、なるべく広い視野で世界を見ようとする。これは大規模なデータによる検証や再現を重視する科学者にはじれったい方法かもしれない
  • 人類学で重要なのは、解釈とセンスメイキング(意味づけ)だ。たいていはミクロのレベルで観察し、そこから大きな結論を導き出そうともする。人間は試験管に入れられる化学物質でもなければ、AIプログラムに投入できるデータでもない。だからじっくり自由に観察し、解釈することで、貴重な成果が生まれる場合もある。とりわけ観察者が目に映るものに対してオープンマインドでいられれば、その可能性は高まる
  • 欧米人が他の文化に優越意識を抱くのは、単に「この文明に参画している」からであり、「生まれてこの方ずっとこの文明にすべての行動を支配されてきたからだ」と指摘している。しっかり目を開けば、他の文化も同じように貴重で価値があることがわかる。
  • 人間は自分の文化を当然のものと思い込む傾向があるが、それは間違いである。文化的バリエーションの幅はきわめて大きく、自分たちのやり方がふつう、あるいは常に優れていると考えるのは愚かなことだ、
  • 人類学者ウェイド・デイヴィスが、人類学が現代社会にもたらしうる最大の恩恵のひとつは「移民排斥主義や憎しみを抑え、扇動政治家の口車に惑わされないための、理解と寛容と共感のワクチンになることだ」と語った理由はここにある
  • 結婚にまつわるイデオロギーと慣習は、世界中の多くの社会において重要な意味を持つ
  • 何より重要なのは、結婚をきっかけとしてどんな話にもとことん耳を傾けることだった。人類学の王道ともいえる方法だ。ひとつのミクロレベルのトピック、あるいは一連の習慣にフォーカスし、そこから徐々にレンズを広角にして全体像をつかむ
  • オビ・サフェド村にやってきたときには、結婚の儀礼を使ってイスラム教と共産主義の「対立」を調べたいと思っていた。地球の反対側のようなケンブリッジ大学では、これほど対照的な二つの信念体系のあいだには対立があるのが当然だ、と思い込んでいた。だがオビ・サフェド村で過ごすあいだに、この発想は間違っていることが明らかになってきた。結婚はもちろん他のいかなる分野においても、村人がイデオロギー的対立に苦しんでいる様子は見られなかった
  • ソフホーズでのハッサンの発言は、村の実態について別の解釈が成り立つことを示していた。私が生まれ育ったイギリス文化を形づくっているのは、キリスト教のプロテスタントの価値観だ。そこでは宗教あるいは信仰体系はひとつしか持つべきではないという考えが前提にある。人類学者のジョセフ・ヘンリックが指摘するように、西洋文化は「状況に応じた個別主義より一貫した原則」を重視する傾向があり、「道徳的真実は数学的法則と同じようなもの」と考える 。思想の一貫性は美徳、その欠如は偽善とみなされる。
  • しかし、このような考えは決して普遍的ではない。多くの社会では道徳は「状況に基づいて」変わるものとされ、状況に応じて異なる価値観を持つことは不道徳ではない。ハッサンの行動はまさにそれを体現していた。中央アジアの文化(そして他の多くのイスラム教文化)に共通するのは、「公的」な場と「私的」な場は区別すべきという考え方だ。たいていそれはジェンダーの区別と重なる。公共の場は男性が支配し、私的な場は女性の領域となる。
  • 人が空間を整理する方法は、環境から受け継いだ心的および文化的「地図」を反映している。その空間で慣れ親しんだ習慣とともに生活するなかで、共有された心象地図はさらに強化され、その存在に完全に無自覚になるほど当たり前のものになっていく。社会的、心的、そして身体的意味で人は環境の産物であり、これらの側面は互いに強化しあう(英語で「習慣(habit)」と「生息環境(habitat)」の語源が同じなのはこのためだ。
  • 二一世紀の社会には、大規模な統計データやビッグデータを使ったトップダウン型の分析をありがたがる風潮がある(データセットの規模は大きければ大きいほどよい、とされる)。このような高度な演算が重要な洞察をもたらすことも多い。しかし私はオビ・サフェド村での経験を通じて、ときには鳥の目ではなく虫の目で世界を見て、両方の視点を組み合わせることに価値があると知った。徹底的に地域に密着し、縦横斜めからある状況を立体的に探究し、自由回答形式の質問を投げかけ、人々が 語っていない事柄 に思いを巡らすことが大きな恩恵をもたらす。他者の世界を「身体化」し、思いを共有することに意義がある。
  • 人類学者のグランド・マッケランは「エスノグラフィーの本質は共感だ」と語る。「相手の話に耳を傾けていると、〝ああ、そういうことか〟という瞬間が訪れる。
  • わが家では冗談交じりに、人類学は職業というより生き方だと言っていた。世界との向き合い方である以上、容易に捨てることもできない。元彼には、君と休暇を過ごすのは最悪だと言われた。『休暇をフィールドワークだと思っている』と。だからこう言ったの。『私は人生がフィールドワークだと思っている」と。
  • 「人間は象徴化し、概念化し、意味を求める生き物だ」と語ったのは、二〇世紀の人類学に圧倒的足跡を残したクリフォード・ギアツだ。
  • アメリカ南部のアトランタを本拠とするコカ・コーラの企業文化において、お茶はバーベキューと相性の良い甘い飲み物だ。この(アメリカ)文化において、お茶は足し算の飲み物だ。夕方近くにシャキッとするために砂糖やカフェインを追加する。しかし中国の文化では、お茶は〝引き算〟の飲み物だ。瞑想と同じように、お茶は本来の自分を取り戻す手段であり、雑音や不純物やストレスのような刺激物や邪魔物は除去する必要がある
  • ガーバーのさらに深刻な異文化コミュニケーションの失敗事例がよく取り上げられる。二〇世紀半ば、ガーバーは国際事業のさらなる拡大を目指し、西アフリカ地域でのベビーフードの販売に乗り出した。ベビーフードの瓶には、アメリカやヨーロッパではよく見る笑顔の赤ちゃんの写真がデザインされていた。しかしアフリカの一部の文化では、缶詰の写真は中身の「材料」を示すのが一般的だった。
  • キットカットが「きっと勝つとぉ(きっと勝つよ)」という方言の響きに似ていると評判になっていることがわかった。だから一二月から二月にかけて行われる過酷な高校・大学受験に向けたラッキーアイテムとして購入されていたのだ。
  • 消費者にキャッチコピーのどこがまずいのか直接尋ねるのではなく、ティーンエイジャーに「ブレイク(休憩)」から連想する光景を写真に撮り、それが何を意味するかを「自分の言葉で」簡単に説明してもらうという間接的方法を採ることにしたのだ。エスノグラフィーからヒントを得て、二〇世紀後半にアメリカのマーケティング業界で使われはじめた方法だ(この点については後でさらに詳しく述べる)。日本で戸惑うような異文化摩擦に直面することの多かった欧米の会社は積極的にこれを活用した。
  • 二〇〇三年にインターネットポータルサイトのGooが実施した消費者意識調査では、学生の実に三四%がお守りとしてキットカットを使っていた。神社のお守りの四五%に次ぐ、第二位だ。二〇〇八年には日本の受験生の五〇%が、お守りとしてキットカットを使っていると回答するまでになった。ソーシャルメディアには、受験会場で赤いラッピングのキットカットを握りしめ、祈るように(というよりあまりのストレスに)頭を垂れるティーンエイジャーの写真があふれるようになった。
  • 「今や人類学の知見が求められるのは、ユーザーエクスペリエンスだけではない。テクノロジーそのものに対する認識、たとえば倫理的な製品開発をするためにはどのような制約を設けるべきかといった考察が必要だ。
  • 人類学は人間という動物を進化論的、そして比較論的枠組みで論じるところから始まった。今日AIが出現したことで、人間であるとは、あるいは非人間であるとは何を意味するかを考えるという新たな課題が生まれた。それによって人類学の対象は人間以外にも広がることになる
  • 「中国には、政府は国民の安全を守るために存在しているという根本的前提がある。七〇年以上にわたって人や組織による監視が日々公然と行われてきた中国社会において、カメラを使った個人識別システムの採用はアメリカほど問題にならなかった」と研究チームは指摘している。
  • アメリカ人は映画『2001年宇宙の旅』(HALという名のAIシステムが宇宙船を乗っ取り、恐ろしい結果を招く)のような大衆文化の影響もあり、コンピュータが意思決定をすることに恐怖を感じていた。しかし中国では文化大革命のような出来事もあり、人間の官僚に対する信頼感が非常に低い。人間の代わりにコンピュータが意思決定をするほうが良いと感じているふしもある。
  • 「個人主義」をめぐる認識も微妙に違っていた。アメリカ人は顔認識システムによってプライバシーや個人の権利を奪われるのではないかと恐れていた。しかし個人の権利がもともとあまり尊重されていなかった中国では、顔のないただの数値を根拠にするのではなく、顔認識カメラが個人の外見に基づいて判断を下すというのは、むしろ個人の尊重のように思われた。アンダーソンはこう指摘している。「興味深いことに(中国では)AIを使った顔認識技術は、西洋文化や伝統の象徴である個性を重視するものととらえられていた。
  • 人類学者の間では不安がくすぶりつづけた。ビジネス人類学を支持する者のなかにも、人類学本来の方法論が曖昧になり、いずれ「ユーザーエクスペリエンス(UX)」、人間とコンピュータの相互作用(HCI)、人間中心設計、人間工学などの活動のなかに埋没してしまうのではないかといった懸念が生まれていた
  • 医師は通常、生物学の観点から身体を見る。しかし人類学者のメアリー・ダグラスが指摘するように、ほとんどの文化において身体は浄不浄の観念などを反映する「社会の縮図」として扱われる 。これが健康、病気、医療リスクへの見方に影響を及ぼす。またダグラスが核、環境、医療リスクを論じた共著で述べているように「リスクの認識は社会的プロセスである」ため、各文化には「特定のリスクを重視し、他のリスクを軽視するような偏りがある 」。たとえばパンデミックが発生すると、人はたいてい「内集団」にこだわる。内集団の定義はさまざまだが、その結果、集団の外部からもたらされるリスクを過大評価する一方、内部のリスクは過小評価しがちになる。歴史を通じてパンデミックはゼノフォビア(外国人嫌悪)と結びついており、その一方で国内感染リスクに対しては甘くなる。
  • 二〇世紀前半のアメリカでは、亡くなった親族や友人の遺体を数日間自宅に安置するのはごくふつうのことだった。「生きているかのような」ポーズをとらせ、生者と一緒に写真を撮ることもあった。ネルソン提督やジョージ六世の遺体の扱いは決して特別ではなかったのだ。それにもかかわらず欧米のジャーナリスト、医師、援助関係者は今、西アフリカの人々の儀礼を「野蛮」と批判し、エボラの原因はおかしな「現地人」が「野生動物の肉」を食べることだと(誤った)主張をしている
  • 人類学者はそうした状況を不当なだけでなく、残酷だと考えた。西アフリカの人々はインフラも貧弱、あるいはまるで整っていない場所で恐ろしい恐怖に直面していた。そうしたなかで自分たちがふさわしいと思う方法で死者を弔おうとした。彼らの信念体系においては、誰かが亡くなったときには生き残った友人や親族が葬儀に足を運び、敬意を表するのは当然とされていた。そうしなければ亡くなった人は永遠の地獄に落ち、身近な人々が苦しむことになる。内戦中にはこうした儀礼を行うのもままならないことがたびたびあり、それが原因で不幸が起こるリスクが高まったと考えられていた。同じ状況が繰り返されることを誰も望んではいなかった。「エボラで死ぬことより、エボラによる死者として埋葬されるほうがはるかに悲惨だった」とゴグエンはボルトンに説明した。「エボラウイルスは身体を殺すだけだが、エボラ式の埋葬は魂を殺す
  • 医療にかかわるアドバイスを伝えるため、村落とは無縁の若者を送り込んだのも悪手だった。村人は通常、村の長老の忠告しか受け入れないからだ。そこで人類学者らは新たなアイデアを提示した。隔離施設を外から内部の様子のわかるつくりに変えてはどうか。地域のコミュニティごとに小規模な治療センターをたくさん設置したらどうか。村の長老にエボラの安全対策についてメッセージを伝えてもらったらどうか。医学的 および 社会的に安全な葬儀の方法を考案したらどうか。多くの人は自宅で感染した親族を看病しようとする事実を認め、どうすればもっと安全に自宅看護ができるかアドバイスしたらどうか。ある意味では、インテルのベルが自動車のオーナーは技術者の思惑とは関係なく、車内で自分のデジタル端末を使いつづけたことに気づいたとき、技術者に与えたアドバイスと重なる。地域の文化に抗うのではなく「共生」したらどうか、と。
  • 親族関係のパターンが感染速度に影響を与えると認識すべきだ(たとえば北イタリアの多世代同居家族はリスクが高い)。また「汚染」に対する文化的考え方が、よそ者を恐れる一方、身内からの脅威を無視するなど、市民のリスク認識を歪める可能性があるとも警告した。
  • 二〇一四年にウィッティがホワイトホールに人類学者を呼んだのは、イギリス政府が問題の所在は得体の知れない「他者」にあると考えていたからだ。一方、二〇二〇年には直面している事態を「既知のもの」と考えた。だから他者から学んだり、自らの姿を鏡に映して見る必要性を感じなかった。

「身近なもの」を未知なるものへ

  • 自分の生き方が「ふつう」で、それ以外はすべて「変」だと思うのが人間の常である。だがそれは間違っている。人類学者は、人にはさまざまな生き方があり、誰もが他者の目から見れば変だということを理解している。これはとても役に立つ考え方だ。他者の視点で世界を見ると、自分自身をより客観的に見ることができ、そこに潜むリスクやチャンスに気づくことができる。
  • 投資銀行の人々が自らの仕事について語るとき、現実世界を生きる「人々」に触れることはまずなかった。代わりにパワーポイントのスライドを埋め尽くしていたのはギリシャ文字、略語、アルゴリズム、図表などだ。
  • 人類学のひとつの利点は、奇妙な「他者」への共感を生み出すことだ。そしてもうひとつの利点が身近なもの、つまり自分自身を映す鏡となり得ることだ。「身近なもの」と「未知なるもの」の線引きは難しい。文化的差異は連続的スペクトラム上にあって変化するもので、固定的ではない。重要なのは、自分の立ち位置がどこであろうと、そこが馴染みある場所か奇妙な場所かにかかわらず、常に自らにシンプルな問いを投げかけてみることだ。コートダジュールに集まった投資銀行の人々が考えようとしなかった問いでもある。「自分が完全な部外者として、あるいは火星人か幼い子供としてこの文化に放り込まれたら、その目にはどんな光景が映るだろうか」
  • 芸術や人文学、社会科学を学んだ人たちは、マネーやロンドンシティは退屈で、どこか汚いところだと思っている。でもマネーがどう動くかを見ようとしなければ、世界を理解することなどできない。
  • 「それならブルームバーグ端末にアクセスできない九九%の人はどうなるんですか」と私は尋ねた 。相手は驚いたような表情を浮かべた。そういう人々にも金融に首を突っ込む権利、あるいは意欲があるなどと考えたこともなかったよう
  • エリートにとって「自らにレンズを向ける」ことが難しい からこそ、それは重要なのだ。新型コロナ危機において、それは明白になった。マネーの世界でも同様だ。二〇〇八年以前の金融業界に人類学者の視点があったら、金融バブルはあれほど膨らまず、弾けたときの影響もあれほど悲惨にはならなかったかもしれない。中央銀行、規制当局、政治、そしてもちろんジャーナリズムに人類学の視点で考えられる人がもっとたくさんいたら、蓄積されていくリスクを見過ごさず、投資銀行に過度な信頼を寄せることもなかっただろう。
  • 外見上は世界どこでも同じに見えるキットカットが、国によって異なる「意味の網の目」を持つのと同じように、社内会議と呼ばれる現代社会の儀礼も、外見上は同じでも実態は違う。
  • 結果は衝撃的で、完全に予想外だった。照明や休憩時間のタイミングを変えても、作業員の生産性にはほとんど変化は見られなかった。しかし作業員が研究者に観察されていると思うと、観察されていないと思っているときと比べてパフォーマンスは劇的に向上した。これは研究者にとって厄介な問題だった。というのも自分たちの存在自体が調査すべき対象の行動を変えてしまうからだ(この現象は「ホーソン効果」と呼ばれるようになった)
  • なぜ作業員たちはいたずらっ子のように部品をロッカーに隠そうとしたのか。それは彼らが板挟みになっていたからだ、というのがブリオディの導き出した答えだった。アメリカの自動車産業を支えてきた大量生産モデルは、労働者を歯車とみなし、定量的指標に基づいて仕事ぶりを評価してきた。組立ラインから送り出されるクルマの数が多ければボーナスを支払う。少なければボーナスは支払わない。だが日本やドイツの自動車メーカーが生み出した新たな「品質管理運動」は、製品に欠陥があったか否かという従来とは異なる指標で労働者を評価していた。このような力点の変化は、投資家向けの資料ではすばらしいことに思われた。ただひとつ問題があった。どれほど「品質」重視が謳われても、アメリカの労働者の評価や報酬は依然として「生産量」に基づいており、工場には労働者を歯車のように扱うヒエラルキー構造が残っていた。
  • 最も深刻なコミュニケーションの行き違いが起こりがちなのは、同じ民族の出身者同士、とりわけ異なる地域や異なる職業的訓練を受けた者同士(IT技術者とエンジニアなど)であるという事実だ。同じ言語を話す、あるいは同じ国籍である者同士のコミュニケーションほどリスクが高いともいえる。それは誰も自分の抱いている前提、あるいは相手が同じ前提を共有しているかどうかを意識したり、考えたりしないからだ。
  • 心理学は二〇世紀から二一世紀にかけて、人間の脳が機能する(あるいは機能しない)仕組みを解明し、大いに発展した。だがひとつ問題があった、とヘンリックは指摘する。心理学者の理論の大部分は、学生ボランティアという最も手近な被験者を調べた結果に基づいていた。その多くは西洋人で、教育水準が高く、年齢は一〇代後半から二〇代前半だ。つまり心理学の研究は人間心理に対する普遍的洞察と謳ってはいるものの、実際には教育水準の高い「西洋人の脳」の仕組みを示しているに過ぎない。ヘンリックが同じ実験をマプチェ族に受けさせたところ、結果は違っていた。
  • 「西洋人はきわめて個人主義的かつ自己中心的、管理志向が強く非協調的で分析的だ。そして自分は固有の存在で、人生を自らコントロールしているという感覚を持ちたがる」
  • こうした特徴をヘンリックは「西洋的(Western)、教育水準が高い(Educated)、個人主義的(Individualistic)、金持ち(Rich)、民主的(Democratic)」の頭文字をとって「WEIRD」と名付けた
  • WEIRD文化では個人の選択という概念を重視する傾向があり、それは家族を定義するときも変わらない。つまり家族の一員に犬を加えるのは、消費者の主体性の一環なのだ。人々は単に受け継いだ「家族」をそのまま受け入れるのではなく、自分自身の気持ちに基づいて「家族」の定義を見直す

社会的沈黙に耳を澄ます

  • 私たちは騒々しい世界に生きている。社会的沈黙に耳を澄まし、目の前にあるのに見えないものに気づく力を与えてくれるのが人類学だ。このような「聞く力」を身につけるのに役立つのが、インサイダー兼アウトサイダーになるエスノグラフィーの手法や、「ハビトゥス」「相互依存」「センスメイキング」「ラテラルビジョン」といった人類学の概念だ。このフレームワークを使うと、政治、経済、テクノロジー、さらには「なぜオフィスが必要なのか」といった一見些末な疑問や「サステナビリティ」運動の驚くべき盛り上がりを、これまでとは違うレンズで見られるようになる。
  • 高い教育を受けたエリートがトランプを見るときの文化的枠組みは、多くの有権者のそれとは違うということだ。ジャーナリストのサリーナ・ジトがその違いを印象的な言葉で表現している。エリートは「トランプの言葉を額面どおりに受け止め、その存在を真剣に考えない」。だが多くの有権者はまさにその逆で、「トランプの存在を真剣に受け止め、その言葉は額面どおりに受け止めない
  • 「意味の網の目」と文化が、自らの世界のとらえ方にどのような影響を及ぼしているかを理解しなければならない。ビッグデータは「何が」起きているか教えてくれても、それが「なぜか」は教えてくれない。相関関係は因果関係ではないからだ。あるいはアレクサのようなAIプラットフォームは、私たちが環境から受け継ぐ、矛盾に満ちた意味のレイヤーを読み解いてはくれない。どのように記号が変異し、アイデアが移動し、習慣が混じりあっていくかも教えてくれない。
  • ではどうすればアンソロビジョンを身につけられるのか
      1. 誰もが自らの生態学的、社会的、そして文化的な環境の産物であることを理解する。
      1. 「自然な」文化的枠組みはひとつではないと受け入れる。人間のあり方は多様性に満ちている
      1. 他の人々への共感を育むため、たとえわずかなあいだでも繰り返し他の人々の思考や生き方に没入する方法を探す。
      1. 自分自身をはっきりと見るために、アウトサイダーの視点で自らの世界を見直す。
      1. その視点から社会的沈黙に積極的に耳を澄まし、ルーティーンとなっている儀礼や象徴について考える。ハビトゥス、センスメイキング、リミナリティ、偶発的情報交換、汚染、相互依存、交換といった人類学の概念を通じて自らの習慣を問い直す。
  • アンソロ・ビジョンを獲得するもうひとつの手段は、アレクサの解説図を見て、その中心にいるのが自分だったらと想像してみることだ
  • 企業経営者がアンソロ・ビジョンを身につけたら、社内の社会的力学にもっと関心を持ち、会社が食事をともにする場ではなくなった今も社会的相互作用、象徴、儀礼に重要な意味があることに気づくだろう。
  • ダイバーシティを大切にするのは道徳的に正しいだけでなく、ダイナミズム、クリエイティビティ、レジリエンスを高めるカギとなることも教えてくれる。人類学者のトーマス・ヒランド・エリクセンは、それをこんな言葉で表現する。「(人類学的な方法で)社会を比較することから得られる最も重要な洞察は、私たちの社会のありとあらゆる部分に別の選択肢があったということ、私たちの生き方は無数の生き方のひとつに過ぎないということかもしれない」
  • 私たちを取り巻く、半分隠れたリスクを生き延びるためにはアンソロ・ビジョンが必要だ。サイバー版シルクロードやイノベーションから生まれる胸の躍るような機会をつかみ、成功するためにもアンソロ・ビジョンは必要だ。AIが日々の生活に浸透していく今、私たちは人間らしさを大切にしなければならない。政治や社会の二極化が進む時代には、共感が必要だ。パンデミックにオンライン化を強いられる時期が収束したら、私たち自身が物理的な「肉体を持つ」存在であることを再確認する必要がある。

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